惨劇の影にある危険
数日前、インドの商都ムンバイで考えられない惨劇が起こってしまった。首謀者が誰で、何を根拠に、今回のような想像を絶する行為を行ったのか。その背景や理由を挙げたら諸説紛紛だろうが、そこにはいかんともし難い現実が横たわっているように思える。悲しいのは、テロの一団には若者も含まれていたようで、前途有為の青年たちが、なぜこれほどまでの殺戮の当事者になれるのかということだ。
パキスタン関与説もあるが、インド固有の新型テロとの見方もある。とてもいずれかだ、などと断定することは無理だ。いろいろ議論がなされている中で、一寸生意気な持論を述べさせてもらえば、インド政治(為政者)の当事者意志の欠如も上げられるのではないか。
被害を受けた国の首相として隣国を非難することはたやすいが、それで政治的責任から免れられるわけではあるまい。シン首相にはもっと明確な自国民に向けたメッセージが欲しかったし、別にこれからでも遅くは無い。ただ、そういった姿勢を貫くだけの覚悟があるかどうかだ。一方の野党も、今回の事件を政敵打倒のための政治の具に使うことの愚かしさを知るべきである。
いかんともし難い現実とは、生きる(働く)意欲を持ちながら、その意欲の発露を閉ざされている社会の中で、絶望的ともいえる毎日を過ごしている若者がどれだけいるかということだ。それら若者の心はまだ純真そのものだろう。社会悪や比較することすら困難な貧富の差を日々目の前にして、義憤を感じざるを得ないことは想像に難くない。そういった純粋無垢な若者をテロのプロが洗脳したらどういうことになるか。ことの是非を問わず、悲惨な道を歩むことになりはしないか。
そういった最悪の事態は十分予想されることだし、「ムスリム」だ、「ヒンドゥー」だと言う前に、若者が歩んでしまいかねない危険な道への扉を閉ざすことが先決では無いか。そのためには、宗教を超えた教育を行い、それによって職業選択の自由も保証される社会の実現に向けたひたむきな努力が必要になる。次期米大統領のオバマ氏が表現した、「リベラルのアメリカも保守のアメリカもない。あるのはアメリカ合衆国だ。黒人のアメリカも白人のアメリカもない。あるのはアメリカ合衆国だ。」のメッセージもインドに当てはまる。
インドに住まうイスラム教徒も、好き好んでヒンドゥー教徒との殺し合いをしたいなどと思っている人はいまい。では、そういったことを許してしまうような環境を作ってしまっているのは誰なのか。本来歩むべき道に国(国民)を導くべき為政者達ではないのか。そこには、「政治の貧困」という一言では看過し得ない大きな危険が潜んでいる。
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