2008.05.18

スズキのブルー・オーシャン戦略

マルチ・スズキのグルガオン工場全景(航空写真) 同社ホームページから

「ブルー・オーシャン戦略」という世界的ベストセラー本がある。3年ほど前に出された本だが、相当版を重ねている。受け売りだが、既存のマーケットで、激化する競争の中で血みどろの戦いをするのが「レッド・オーシャン」。一方、競争すら存在しない未知の市場空間のことを「ブルー・オーシャン」という。未知の市場空間を目指すので、自ら市場を開拓していかなければならないリスクが伴う。しかし、より広い、より深い可能性が秘められていることは言うまでもない。

このブルー・オーシャン戦略を四半世紀も前に実践していた企業がスズキではないか。その辺を一寸おさらいしてみよう。スズキのインドでの純益は同社の連結純利益(07年3月期)の6割強(約5百億円)を稼ぎ出すほどにまでなっている。スズキにとってインドは今やドル箱である、といってしまえば簡単だが、未知の世界に踏み出したときの恐怖感には想像を超えたものがあったろう。

鈴木会長が1978年48歳の若さで社長になり、それから4年足らずでインド進出を決めたとき、スズキの日本での自動車メーカーとしての地位は10数社中ほとんど最下位に近かった。当時の日本大手メーカーのトヨタやホンダ、そして日産などはこぞって米国への進出を試みた。ではなぜインドだったのか。鈴木社長は日本では1番になれないから、インドに行って1番を取ろうとしたと語っている。今にして思えば、鈴木のインド・ブルー・オーシャン戦略だったとも言える。

米国に行ったところで、ビッグスリーに迎え打たれ、その上日本のトップスリーなどとも戦わないといけない。血みどろの戦いが予想され、淘汰される危険性も十分だった、すなわち、レッド(血染めの)・オーシャンに船出するのも同然だったであろう。一方のインドは、競争の無い(ブルー)オーシャンではあったが、インドという国の持つポテンシャルも今ほどには認識されておらず、インドという国そのものの認知度も低く、計り知れないリスクがあった。しかし、長期的視点から見たインドの潜在力にはリスクを犯すだけの意味があったわけだ。それは、83年当時830台でスタートした年間製造台数が5年後には10万台を超え、昨年度70万台越えを記録したことを見れば明らかだ。その上、スズキの昨年度の日本での販売台数が前年度割れの約66万台と、ついにインドを下回った。

鈴木社長(当時)が世界最大の米国市場に目を奪われ、レッド・オーシャンに船出していたらと想像するだけで、関係者は背筋が寒くなるのではないか。スズキは今、年産百万台体制に向かい歩を進めている。成熟市場をあえて避け、未開の地(ブルー・オーシャン)に進出したスズキだが、ブルーであったオーシャンは次第に赤みを帯びてきている。果たしてその中で、次なるブルー・オーシャンをスズキは見出せるのか。これからの展開が楽しみだ。

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