2008.12.07

「共生」の勧め

東京では木枯らしが吹き、米デトロイトでは自動車産業が暴風雨圏に突入、サブプライム問題で始まった金融危機により、世界経済は混乱のきわみにあり、先行きのなんと暗いことだろうか。日本企業のインドビジネスに関してもプロジェクトの延期や現地生産の削減などが報じられ、年の瀬を迎え、行く年のみならず、来る年についても明るさが見えてこないのは寂しい限りだ。

ドーム球場に、世界36の国と地域から参加した関係者達

そんなさなか今日(12月7日)、世界中に独自の学習法で事業拡大する企業の五十周年記念式典に参加させていただいた。ドーム球場に世界から約1万6千人もの関係者を集めて、3時間にわたる熱気に満ちた大イベントだった。そこで熱く語られていたことは、全ての人に無限の可能性があるという前提に立ち、それを導く先生への感謝の気持や自分自身でものを考える力を付けることの重要性。私なりの理解で言い換えれば、己の可能性を追求するとともに、感謝の気持を持ちつつ他の人と仲良く生活していくということではないか。そういった考えを自分たちの教育手法を通して普及させることで、世界平和をも希求できると主張していた。

この辺のものの捉え方(思想)というものは、インドが発祥の地である仏教の「共生」という考え方にも似ている。意外なことに、この共生に関してまとまった文献(「新・共生の思想−世界の新秩序」徳間書店)を物しているのが著名な建築家であった黒川紀章氏(1934-2007)とのことである(「インドからの道・日本からの道」出帆新社)。そのなかから一部を抜粋させてもらうと、「共生とは対立、矛盾を含みつつ競争、緊張の中から生まれる新しい創造的な関係をいうとともに、お互いのもつ個性や聖域を尊重しつつ、お互いの共通項を拡げようとする関係」となる。また、そういった「お互いを理解しようとするポジティブな関係」をもいうらしい。

インドで繰り広げられた惨劇を思うに、インドで生まれたこの「共生」という精神が失われてしまったのかと、残念に思われてならない。もとより、イスラムの思想に「共生」という考え方があるかどうかは寡聞にして知らないが、人間としての基本的姿勢に大きな違いが無いとすれば、イスラムの聖典にその言葉(共生)があってもおかしくはない。別に誰の教えであってもかまわないが、生きとし生けるものが今一度この「共生」という言葉の意味を考えて実践したら、この世も多少はましになるのではないか。

見事に色づいた、オフィス近く本郷通りの銀杏並木

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