「日はまた昇る」と、「日を昇らせる」の違い
所用があって先週京都に出向いた。訪問先の近くに世界遺産の東寺があったので、既に門は閉まっていたが、一寸立ち寄ってみた。写真を撮るには暮れ始めており芳しくないかなと思っていたら、運よくライトアップされていた。東寺が誇る五重塔は国宝に指定されており、京都のシンボルのようなもので、気を付けていれば新幹線からも見える。高さは54.8メートルで、日本一高い木造塔である。建立に着手したのは空海という偉いお坊さんとのことだが、現存する塔は5代目で、4回も焼失している。
4回も焼失したらいい加減嫌気が差して、もう一回などと思わなくなるのではないか。それでも再建したという根性と、京都企業家のアントレプレナーシップに何か通じるものがあるのかと思ってしまった。京都といえば古都、新しいものなど生まれる土壌ではないような気がするが、どっこい現実はそうでもない。ゲーム関連の企業さんもそうだが、工作機や計測器、小型モーターやセラミック、加えて女性の下着メーカーさんなど、「やりぬく力」でかなり有力な企業が京都で生まれ、育っている。
歴史の変遷のなかで、塗炭の苦しみを味わいながらも新たな歴史を作ってきたのが京都だとすれば、その五分の一か六分の一を通過しているのが今のインド経済ではないか。世界的金融危機の中で先進国の痛み方は一分の一(全体)である。ところが、インドに限って言えば、それに匹敵する人たちは全人口の1/5か1/6くらいではないか。とすれば、天辺の1/6が傷んだだけで、まだ実際のゲーム(ビジネス)に参加させてもらっていない次の1/6、そしてその次の1/6がうまく表舞台に出て来れれば、現状を打開してくれると思っても良い。そこに先進国のダメージと新興国であるインドが受けたダメージの違いがあるように思えてならない。
成熟し、逃げ場の無い先進国と、まだまだ未成熟でやるべき事が山ほどある新興国の経済危機を一様に捉えて判断しては間違える。その上で、先進国と新興国を一つの経済国家と考えるなら、「日はまた昇る」というのではなく、皆で「日は昇らせる」といったほうが元気が出る。一国単位で経済危機に対応するのではなく、世界が手を携えて現下の危機に対応するということではないか。
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