2007.10.29

我が信じる道を行くインド人―その2

前回、インド建国の父ガンディーさんやネルー初代首相が、抑圧された多種多様な国民を鼓舞し、独立に導くために用いたスローガン(政治的プロパガンダ)は「Self-confidence(自信)」と「Self-respect(自尊心)」であったということを書きました。すなわち、「我々インド国民は数千年の歴史を持つ有能な民族である」という御旗の下に一致団結させて、独立を勝ち取ったわけです。この辺の、言ってみれば、洗脳的な国民誘導がインド人をしてプライドの高い、唯我独尊的な、悪く言えば、傲慢なインド人を作ってしまったのではないのかと思うのです。

以前聞いた話ですが、人間はかなり思い込む癖があって、ある人を病気にしたければ、10人くらいが示し合わせて病気に出来るというのです。どうやるかと言いますと、最初の人が「お前、最近顔色悪いよ」とやる。次の人が、「そう、俺もそう思ってたんだけど、どこか悪いんじゃない?病院に行って診てもらったら」と続ける。こんな調子で、10人が10人、同じような調子で元気な人を追い詰めると、本人は本当に調子が悪いと思い込んでしまい、体調を崩してしまうこともあるそうです。同様に、「お前は有能で、優秀で、云々」を繰り返して言ってやると、当人はその気になり、それを前提にした行動に出るようになるということです。そうやって時間を掛けて受け継がれてきたDNAはそう簡単に変わるものではありません。ですから、今度はこちらも、そういったことを前提にインドの人と付き合う必要が出てくるのです。

よく日本人がインド人嫌いになる理由として「自己主張が強い」、「話し出したら一人でしゃべっていて他の人に話させない」。従って、「鼻持ちならず、かわいくないから嫌い」等といったことが良く指摘されます。これを逆(インド人の日本人評)にしてみると、「何も言わない日本人」「何を考えているのか分からない」。従って、コミュニケーションが取れず、意思疎通もままならない、となってしまいます。言い古された話ですが、国際会議で一番難しいことは「インド人をいかに黙らせ、日本人をいかに話させるか」というのがあります。言い得て妙ですが、余り笑えぬ話でもあるのです。11億もの民を抱え、ヨーロッパが入ってしまうような広大な国土。無数の言語と宗教。階級社会における極端な貧富の差。植民地(被支配者)の歴史。日本人ではおよそ想像がつかない世界がそこ(インド)にあるのです。人類の坩堝で、28にも上る州の数。その上使っている言葉が皆違う。インド人にとって他州に行くのは外国に行くようなものなのです。勢い、共通語である英語が話せないとビジネスにはならない。インドでは、沈黙は死を意味し、雄弁は自己を助けるから「是」なのです。その上、他人にかまっていたら、自分の事が疎かになってしまうので、インドではまず自分ありきなのです。

私流に言えば、「インド人自己中心思考回路」となります。この対極が日本人の「他人中心思考回路」で、何事も自分では決めず、周りとの調和を重んじ、他人がどう考えるかを熟慮した後で自分はどうすべきかを考えます。混迷する21世紀を生き抜いていくことを考えた場合、どちらがよりフラット化するグローバルな社会に適しているか、私ならず共考えてしまうのではないでしょうか。

ネルー首相とマハトマ・ガンディー

マハトマ・ガンディー
(注) 「マハトマ」(महात्मा, Mahatma)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴール(ノーベル賞受賞者)によって贈られたとされているガンディーの尊称です。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれています。本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)です。

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