2010.02.15

インドから見えてくる日本の現状(その1)

Newsweek(日本語版2月10日号)を読んでいて「納得」なのだが、非常に「気になる」記事があった。79年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』というベストセラーを出版したハーバード大学名誉教授エズラ・ボーゲル(Ezra F.Vogel)氏と中国の気鋭の経済学者周牧之(チョウ・ムーチー)氏との対談(ジャパン・アズ・ナンバースリー)のなかで、『日本人もハーバードに来ている。しかし彼らは帰国した後、企業や政府機関に「籠もって」しまう。日本人は聡明だが中国人の言うところの「小聡明(シアオツォンミン)」。一定の範囲内の聡明さに限られる。』と言っているくだりだ。限られた範囲であれば百点も取れるほどの聡明さを発揮するが、範囲を取っ払われると何をしていいかわからず路頭に迷うから、「君子危うきに近寄らず」的に何もせず良い子を決め込む。その背景には、「敗者は復活できず」という日本的社会のおきてのようなものが、まだ残っているように思える。失敗しても米国のように“Nice try.(Try again!)”という社会環境が出来上がっていないからではないか。

「世の中には何一つまともなことを企てないがゆえに、過(あやま)つことも全然ない人々がいる」や「過つのは人間」と言ったのはドイツのゲーテだ。「おろかなる者汝の名は・・・」ということになるが、事を起こさず惰眠をむさぼり、その上富や名声が得られるとなれば、あえて火中の栗を拾う人も無くなる。日本的美学の「沈黙は金」や「物言えば、唇寒し・・・」などはインドでは通じない。むしろ、「沈黙は死」を意味する。なぜなら、ゼロは何倍してもゼロだから。

モノづくりにボーダーがあって、若年労働者が十分いたときには、黙々と働く日本的美学が通用したかもしれないが、これだけ世界経済がフラット化してくると、そう言ってもいられない。そこに存在することを、あらゆる手段を講じ、伝えていく努力が必要だ。だから、そと(インド)から見ると、日本企業の魅力も見えてこなくなってしまう危険性がある。そうならぬよう、日本企業(を運営している日本人)も「Change」する必要がある。(続く)

4番目の顔見世は「島田サラスヴァティー」です。通称「サラちゃん」。雑種の雌ネコです。名前の由来は、聡明であるがゆえに、インドの学問・芸術をつかさどる女神(サラスヴァティー)にちなみ付けました。日本に輸入されたサラスヴァティーは弁才天(別に、妙音天・美音天ともいわれる)になりました。テレビが好きです。テーブルに乗り、ニュースを聞いています。眠っているのではなく、愚かなことで国会審議にうつつを抜かす輩を見て、「ニャンてことだ」と嘆き悲しんでいるところ(と見受けました)です。

蓮の花ではなくテーブルの上に乗るテレビ好きの女神さま、「サラちゃん」

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