2007.11.05

「這っても黒豆」ではダメ。

神々をも苦しめた魔神を殺したドゥルガー女神の神像

10月31日(水)はハロウイーンだった。近所の花屋さんに大きなかぼちゃのお化けが飾ってあって、電気仕掛けのネコが顔を出したり、引っ込めたりしていた。ケルト人の収穫感謝祭がカトリックに取り入れられたものらしいが、ケルト人の一年の終わりは10月31日とのこと。11月1日から新年が始まると共に、冬の季節の到来となる。

そういえば、インドの人たち、特に商人にとっての新年はディワリだ。ヒンドゥー暦のため一カ月くらいの幅で毎年日にちが変わるが、今年は11月9日。光の祭典で、その日から旧暦の新年が始まる。家々で明かりを灯し、富の女神「ラクシミー(吉祥天)」や障害を取り除く神様であるため、商売の神様とも言われる「ガネーシャ(歓喜天または聖天)」をお祝いする。ニューデリー辺りに住んでいると、この日を境に季節が変わるのが良くわかる。急に涼しくなり、過ごしやすくなるのだ。一カ月くらいの幅が季節の変わり目をうまく捉える役割を果たす。現在のカレンダーではとても叶わぬ技である。

そのインドの新年ディワリに先立ち、秋の始まりと種まきを祝うダシャラーというお祭りがある。ラーマ神がラーヴァナという鬼神を倒したという時期に当たり、街角の広場には3体の巨大な悪い神様の人形が置かれ、祭りの10日目(最終日)に内部に埋め込まれた爆竹と共に焼き落とされる。良い神々の悪い神々(魔神や鬼神)に対する勝利の日となる。なんか日本の勧善懲悪の筋書きに似ている。水戸黄門式に、悪いものは悪いとはっきり言い、やっつけてしまうのだ。

一つ解せないのは、その辺は似ていながら、日本では「這っても黒豆」という、奥ゆかしいと言うか、理不尽な表現がある。お姑さんが黒豆だと言ったら、それが仮に動いたとしても(だから黒豆であるはずが無いのだが)、嫁は「黒豆ですね」と言って、義母の顔を立てる。その辺が、日本での処世術につながっているのではないのか。その延長線で、曖昧なものの言い方を持って任じていると、物事、特にビジネスはスムースに行かない。それどころか、日本人以外の人とのコミュニケーションに支障をきたし、商売が頓挫する。インドの人とコミュニケーションを図るときも同じで、言い方に工夫はするとしても、やはり「這ったものは黒豆ではない」と、明確に言い切ることが必要だ。この辺のところで、余り明確に言っては角が立つのでは、といった配慮は不要だ。

したがって、先方(インド人)の対応の仕方も同様と心得る必要がある。奥ゆかしくなくても、以って回った言い方をしてくれなくても、憤慨してはいけないのだ。要は如何にしてビジネスを進めるかで、顔の立てっこではない。ビジネス以外では顔を立てても、顔を立てるために契約条件の悪化を甘んじて受けてくれるほどインド人は御人好しではない。その辺の切り替えをうまくやらないと、自分自身不愉快になるし、後が続かなくなる。ビジネスでの交渉と、個人的な交わりを峻別してかかる必要がある。これが結構、日本人には疲れることなのだ。

近所の花屋さんのハロウイーンの飾りつけ

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