2014.06.26

私を変えたインド。18年間の苦闘日記

 私が最初にマドラスに赴任したのは、元号が昭和から平成に変わった1989年。大学を卒業して松下電機に入社してから6年目のことでした。それから四半世紀が経ち、マドラスはチェンナイに、松下はパナソニックに名前を変えましたが、私は引き続き、チェンナイでパナソニックの仕事を続けています。

 1995年に一度、日本に戻ったものの、2001年にはインドに帰ってきました。在印生活は合計で18年になります。炊飯器事業の立ち上げに取り組み出したころの私は30歳前後の若手・中堅社員でしたが、このビジネスは今や、年間生産台数が100万台突破に迫って、パナソニックのシェアが5割に達するというところまで育ち、一方で私は50代半ばに差しかかりました。

 インドで働き始めた当時、松下電機の現地でのプレゼンスは小さなものでした。同じことは、世界経済におけるインドについても言えます。1947年の独立以来、長らく社会主義体制が続いていたこの国では、ほとんどの外国企業の存在感は薄かったし、ほとんどの外国企業においてインド事業の存在感も薄かった。それが実情でした。

 赴任当初、大都市であるマドラスでも市内を走っているクルマの大半は、英国の古いセダンをベースにインドで生産され続けていた「アンバサダー」でした。外観も性能もクラシックカー一歩手前に思えるような車種なのに、現地の人は、燃費は世界最高だと胸を張ります。

 路上に出ても故障が多くて、人に押されて動いている時間の方が長いからだ──というオチのつくジョークだったのですが、それは当時のインド経済の現実の一端を表していました。街に出れば、路上を世界中のブランドのクルマが走り、国産車もそれに引けを取らないという現状は、別世界のようにも思えます。

 工場の建設予定地は荒れ野のようで水道も電気も来ておらず、私たちスタッフの、たまの楽しみと言えば、同僚と花札をしたり日本からの土産物のウイスキーを飲んだりといった程度。生きていくのもつらいというのが正直なところだったのですから。

 もちろん、25年というのは長い時間です。その間、インド経済も、ただひたすら順調に成長を続けてきたわけではありません。それはパナソニックのインド事業も同じで、炊飯器部門に限っても、停滞期や後退期は短くなかったし、2000年代後半から販売が急伸し始めた後でさえ、現在に至るまで課題は次から次へと浮かんできます。

 しかし、ただ苦労ばかりで、つらいことの連続だったわけでもありません。目標の達成と課題の解決に真剣に取り組む中で、インドの人々と風土を理解し、事業を育てようと努める。そういう仕事を通じて、楽しいこと、痛快なことにもたくさん遭遇しましたし、変化や成長を実感できる機会も少なからず得られました。

 そういった私自身のインド・ビジネス体験を、これからこのブログで、少しずつ、しかし、たっぷりと、ご紹介していきます。お読みくださる皆さんのお役に立つことができましたら幸いです。ぜひ、よろしくおつきあいください。
 
 
次回の更新は7月18日ごろを予定しています。

一覧に戻る

contact お問い合わせはこちら